TOP

#048『奈良→チューダー→江戸→ビクトリア→昭和→今』

2018-10-27

最近、「平成最後の○○」とよく耳にしますね。
平成30年、次の年号は何になるんでしょうね。
明治(M)、大正(T)、昭和(S)、平成(H)、予想ですが発音でいうヴィクトリアンのVはないと思います(笑)

さておきまして、そんな平成最後の夏、少し前の話になりますが2日ほどお仕事をサボって遊んで来ました♪

工房のある京都府相楽郡(現木津川市)は奈良県との境に位置し、奈良の平城京から京都の平安京に遷都されるまでに恭仁京(くにきょう)という都が4年間置かれた歴史ある場所でもあり、山あいに田畑が広がる長閑な地域です。

一言でいうと、すっごく田舎です!

でも、最近知ったのですが、この辺りは織物がとても盛んな地域だったようです。
そういえば、幼い頃この近所を歩いていると、そこらじゅうで『ガシャガシャ ガシャガシャ』と織機が動いていたのを思い出します。

実は先日、工房からすぐ近くの織物工場を取り壊すとのことで、所有者の方のご好意もあり「使えそうなものは使って」と言ってくださり、職人仲間を誘って中に入らせていただきました。
blog181027_01.JPG
blog181027_02.JPG
blog181027_03.JPG
blog181027_04.JPG
機能美のかたまりですね。

小学校の体育館ぐらいある広い工場が数棟あり、その隣に倉庫が並んでいました。
その中には所狭しと大きな機械が置かれ、まだ糸が掛かったものや織られている途中に見えるものもありました。
こちらの工場では、近年まで襖地や織物壁紙を作っておられました。

そこで、あまり知らないことを勝手に書くわけにもいきませんので、今回のブログを書くにあたり、この地域の織物の歴史を専門に研究されている先生にお話をうかがいました。

江戸時代から木津川沿いで綿花が栽培され始め、当時は綿が特産物のひとつでした。
そのため織物の技術が発展し、綿織物以外にお隣奈良の特産品でもある麻を織る工場もたくさんあったようです。
しかし、明治時代になって武士がいなくなると麻製だった裃(かみしも)の需要が激減し、麻を織っていた工場は麻蚊帳を生産したり、戦後はその技術を用いた襖地や織物壁紙が作られたとのことです。
ちなみに、織物を用いた襖紙や壁紙は現在でも国内80%のシェアがあり全国一らしいです。
当時はこちらもたくさんの方がお仕事されていたんでしょうね。
 


blog181027_05.JPG
綿をかぶったまま、時間が止まっていました。

blog181027_06.JPG
『安全は一人一人の注意から』

仰る通りm(_ _)m

blog181027_07.JPG
で、いきなり洋書の挿絵写真を載せたのですが、これは機械化される前の旋盤のイラストです。
一見、シンプルな機織り機にも見えなくもないですね。
説明には、チューダー朝(16世紀)から20世紀まで使われた足踏み旋盤とあります。

下の写真は、以前の買い付けで出会った足踏み旋盤。
シンガーミシンなどと同じ原理で、革のベルトで繋がった両軸を回転させて使います。
これもイギリスのどこかの工房から出てきたのでしょうか?
年代は不明ですが、「もしかすると、今お店に並んでいる家具のパーツを1つぐらいこれで作ったかも知れない」と想像するとドキドキしますね。
blog181027_08.JPG

話を戻しまして。
同じ本に載っていた下の写真は、明治時代の日本の職人さんが腕を揮った漆塗りの飾り棚。。。

ではなく、イギリスの建築家 Edward William Godwin(1833-1886)によってデザインされ、1867年に発表されたサイドボードです。
1867年というと明治元年の1年前、ざっくり言うと江戸時代の最後の年ですね。blog181027_09.JPG
キャプション部分には、『日本の影響を受け、黒く着色されたマホガニー材と銀メッキされた蝶番や取っ手』とあります。
そして、目についたのが Liberty's embossed Japanese leather paper の部分。
レザーペーパーが羊皮紙を指すのか写真からは判別できませんが、シワっぽい感じから日本の襖や障子をイメージされたのかも知れませんね。

リバティといえば、生地で有名なロンドンの老舗デパート。
以前、お客様ご自身で買って来られたリバティの生地で椅子を張り替えたこともありますので、今も世界中で人気がありますよね。
19世紀後半に設立され、日本を含む東洋の織物や工芸品を輸入して、それらを販売するお店として始まったことで知られています。
公式ホームページには1875年設立とありますので、この家具でいうと1867年のデザイン発表後作り続けられていたのか? 実際に制作されたのがだいぶ後だったのか? もしくはリバティ氏が前職時代に納めたのか? などいろいろ想像してしまいます。

年代だけの繋がりでとりとめもなく書きましたが、(これは、もしかしてもしかしないか?)との期待を込めて「当時、この辺で作られた織物がイギリスに輸出された記録はありますか?」と先生におたずねしたところ、「京都府の記録では10000反の生産という資料が残っていますが、輸出の有無はわかりません」とのお答えでした。

10000反と聞くと多く思いますが、他の産地と比べるととても少なく、おそらく近隣で消費されていた量とのことです。

やはりか…。

でもでも、1~2反ぐらいは何かの拍子に海を渡ってないですか!?(笑)




 

カテゴリ

月別記事一覧